ススメ専攻医3年目,卒後5年目の海永千怜です.
東京都の離島,伊豆諸島神津島診療所に勤務した報告です.
人口1800人超の村の唯一の診療所(医師は2人)という環境でした.前情報も少なくどんなところなんだろうと期待と不安を感じながら,プロペラ機で到着しました.
結果として言葉に言い尽くせない,楽しくきつい診療所漬けの日々を過ごすことができ,あっという間の3か月間でした.もっと長くいたい,診療所の皆ともっと一緒に働きたい,島の人々や島の風土にもっと入っていきたい,とても心動かされた日々でした.
この3か月で
・日々の外来は,午前で30-50人前後.do処方を繰り返さないように,サマリーをみてなあなあになっていたことや,ポリファーマシーに介入したり,困っていることを聞くようにしたところ,外来は長くなり,結果としてDr同士の振り返りや紙カルテ書きは夜遅くまで続くことになりましたが...全然苦にはなりませんでした.患者さんの方も熱心に話を聞いてくれてありがたいといって,待ってくれる人が多かったです(それでも改善点はメリハリをつけることだったと思います...).
・患者さんの多くは日々の仕事(漁業,農業)からくる腰痛,肩こりに困っていて,Dr2人で,日々解剖教科書を開き,生食筋膜リリース,ブロック注射,リハビリ介入など,あれこれ試しました.看護師さんやPTさんなどのスタッフさんたちも,新しい処置や試みに柔軟に対応してくれました.患者さんの痛みが和らいで,感謝されると本当に嬉しいものでした.
これまでの研修ではどうしても内科寄り,内服加療が主でしたが,整形外科的な動作分析をしたり,ケガの傷を縫ったり,粉瘤を切除したり,皮膚の診察をしたり(水痘が流行していました),意外と子供も多いので小児の診察をしたりということが絶え間なくランダムにくるので,その都度勉強したりDr同士で相談して解決策を探していく,という日々がとても刺激的でした.
・ヘリ搬送は3件ありました.自分でt-PAをやることも初めてでした.離島医療という特殊な状況であり,必要ならばなんでもやる,というスタンスであり,受け入れ病院の先生方も,遠隔読影を利用しつつ,的確な指示をくれますし,自分だけではなく医師は2人いますのでとにかく協力してやりました.
・最近少なくなった減圧症も経験しました.神津島診療所には実はかなり初期段階に設置された減圧症の再圧タンクがあります.アナログな再圧タンクです.素潜り漁が特に盛んだった10-20年以上前,夏場は連日,減圧症の症状になった人が,再圧タンクに並んで入っていたとのことでした.海草などの漁が盛んで,漁師さんは日に4-5回,操業限界時間まで何度も往復して素潜りをして,減圧症にしょっちゅうかかっており,大学研究者が,このままではいかんと意見書を出したほどでした.再圧タンク設置前は,患者さんは毛布をにくるまり,海中の一定の水深のところに酸素を吸いながら潜り続け,一定の時間を体が冷たくなるまで過ごし,海中で自力で再圧タンクを再現して,症状を緩和していたのだそうです.
再圧タンクを動かせるのは,講習をうけた漁協の方だけで,タンク稼働時の2-5時間,つきっきりで,無休無給で操作します.なかには尿瓶もあり,弁当や水分を供給できる窓もあり,広かったです.
診療所は丘の上にあるので,減圧症症状になっても,浜辺からの標高の高さにより診療所に来るまでにさらに患者さんは苦しくなってしまいます.もし,操作できる方が用事で島にいなかったら,患者さんはヘリ搬送しなければならず,そうすると症状は余計に悪くなります.そういった歴史と経過も,村の人から教えてもらいました.
・島の文化も垣間見られました.
神津島は在宅看取り率が高い島(40-50%)です.皆,自分の家で死ぬのだということが当然で,家族も最後は看取るのだという考えが根付いています.訪問看護や訪問介護の体制はありません.ぎりぎりまで施設で過ごし,食事が取れなくなってきたり,島で対応可能な治療でも奏功せず衰弱してきたりしたときに,「そろそろおうちかもね」と関係者が絶妙なタイミングで,家に連れて帰る段取りをつけます.点滴や酸素投与はしません.それでも患者さんは苦しむ様子なく,安静な呼吸の仕方で,出すものを出し切って,生まれ育ったなじみのある家に帰ってから2-7日程度で静かに,美しく亡くなられていきました.とても自然な,当たり前な,命の終わり方を見せていただきました.
・ある日,痛ましい事故がありました.
そういう情報はすぐに村中に知られるので,村人は「コンパクはだいじょうぶか」と心配していました.コンパク=魂魄のことです.人が自宅でない場所で亡くなってしまったとき,亡くなった場所に取り残されてしまう「たましい」を弔うために,島の「ばぁ」を呼んで,その場所で関係者が念仏を唱え,祈りをささげる独特な風習のことでした.宗教とは違う,別れの儀式でした.
草履,紙に包んだ米と塩,何かの草の枝,お駄賃としての60円を包み,現場に関係者で練り歩き,線香をたいて,祈りました.ばぁが「ここに残るんじゃないよ」と「たましい」に言って,紫の布に広げられた小物たちを米一粒も落とさずに包み,家族に渡し,あの世に持っていく旅の品として,一緒に棺に入れるのです.
とても神聖でおだやかな空間でした.魂魄を送り出す島の「ばぁ」の仕事,昔は人手がたくさんあったその仕事も,後継ぎはいません.
神々が集う(=神集→神津)ことが所以といわれる島.いたるところに,神様を祭った石像があります.年1回,漁師さんや漁協の方たちが,海に向かって祭壇を作って,海で亡くなった人に対して祈りつつ,海からあがった魚や貝達に感謝する儀式もやっているのだそうです.そういう風習が根付いているって素晴らしいと思います.
たった3か月ですが,あらゆることを経験しいろんなことを感じられた日々でした.
皆さんによくしていただきました.こんな出会いや経験ができたのも協会の制度のおかげだと思います.ぜひまた派遣させていただきたいです.
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1 コメント:
海永先生
湯沢町保健医療センター井上です。
神津島での3ヶ月、お疲れ様でした。本当に色々なことを経験され、学んでこられたのだなあと思います。
医療だけではなく、島の文化にも触れることができた体験は貴重ですね。
また色々なことを後輩たちにも伝えて欲しいと思います。
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